これは一種のSFとして思考実験の題材にするのがよいでしょう。提起されている問題は非常に興味深い。社会的秩序が(政府など無くても)自然に生まれ得るという可能性を示します。
その理論的裏付けはゲーム理論です。それによれば、無政府状態であっても、人びとが合理的に行動することで、安定した社会秩序が生まれるとされます。
しかし、その理論には、限定合理性(取引費用の経済学)や感情的非合理性(行動経済学)が含まれていない。
私は懐疑主義者です。合理主義の暴走を監視する立場です:
知らざるを知らざると為せ 〜懐疑主義者の矜恃〜
リバタリアンの中にも合理主義者と懐疑主義者がいるわけです。
ヒトの合理性を100%信頼する人は、無政府資本主義者になれる。
私は懐疑主義者です。ヒトの合理性は限定的だと考えます。また、感情や体調に左右されると考えます。ですから、無政府資本主義は、おそらく実現しないだろうと考えます。
懐疑主義者の無政府資本主義者を知りません。おそらく、いないでしょう。
ただ、無政府資本主義の問題提起を無視してはなりません。それは政府の存在を当然視する者への警鐘なのです。
私はリバタリアンです。いまよりも「小さな政府」を望みます。そして、無政府資本主義の問題提起から目を逸らしません。多くの人に知ってほしいと思います。警察も消防も国防も民営化できるかもしれない、というその議論を。これは「小さな政府」を推進する上で役に立つ議論です。案外いろいろなものを民営化しても、市場で解決されるのだと気付かしてくれます。
無政府資本主義の存在意義は、その実現可能性に関わらず、その啓蒙性にあります。無政府資本主義の議論を見れば、それより穏健なリバタリアニズムの議論など、とても現実主義的に思えるはずです。そして、実際に現実主義的なリバタリアンは少なくありません。例えば、ミルトン・フリードマンなど。
ハイエク 『貨幣発行自由化論』 第二版序文
経済理論家または政治哲学者の主要な仕事は、今日政治上では不可能であることが政治上で可能になるように、世論に影響を与えることにあるべきであり、それゆえに、私の提案が現在においては実行不可能であるという反対意見は、私がこれらの提案を発展させるのに少しも妨げとはならない。
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